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那須與市宗高と守本尊由来記
八幡大菩薩像由緒碑  源平盛衰記の花形、那須與市は後世に弓矢の神といわれた武人である。この武人の守本尊と伝えられる八幡大菩薩像と太田神社との因縁は、次のように伝承されている。
 この地に川島百太郎という旧家があり、徳川時代、この家(当主定右衛門)の女人が将軍家御奥の局方に奥女中として永年実直に奉公した。永暇を願い出て帰宅の際、局から労をねぎらって下賜された八幡大菩薩像を持ち帰ったが、後に民家に祀るのをおそれて正八幡宮に奉納した。そのため正八幡宮の本尊と誤伝されたという。
 明治初年の神仏分離で正八幡宮は太田神社と改称、隣接の長勝寺は別当職を退き、八幡大菩薩像を同寺に移した。先年、この像があまり古くなったので、ある塗師に塗り替えを依頼した。塗師が旧箔を落とし始めると、急に気分が悪くなって病床についたので、像を住職に返すとたちまち病気が治った。住職が不思議に思って像を調べると、背部に「那須與市宗高守本尊」と記されていたという。
 当太田神社は、第二次世界大戦の空襲で焼失したが、この像は長勝寺に安置されていたので焼失をまぬがれ、昭和二十二年頃、現在の住職によって同神社に奉還された。
 この像の高さは台座を含めて十五・五センチで、背部の旧箔の落ちた部分に、薄れていて全部は判読できないが、正八幡と那須與市宗高の墨書が確認できる。
 因みに当太田神社のご祭神は、誉田別命、(応神天皇)で、奥津彦命、奥津姫命(竃神)、宇迦御魂命(稲荷)、高龗命(貴船)が合祀されている。

八幡大菩薩像由緒碑 昭和六十三年十一月三日建立